本記事にはPRが含まれます。フォトンビームは医療機器ではありません。
記事の内容は、あくまで筆者個人の体験・感想であり、効果には個人差があります。
体調に不安がある場合は、必ず医師にご相談ください。
朝がつらい毎日から、光との出会いまで

僕は、2025年時点で41歳。
自分のITの会社を立ち上げ、今はフリーで仕事をしている。
これは、フォトンビームと出会い、
そこから独立まで歩いてきた道のりの“はじまり”の話だ。
ずっとつきまとっていた「だるさ」と「眠気」
気づけば、41年。
「眠い」「だるい」「何もしたくない」という感覚が、
昼も夜も僕のそばにあった。
朝、目覚ましが鳴っても、
体の奥に重りがあるみたいで、手足が動かない。
起き上がるまでに1時間。
ひどい日は2時間。
それでも、学校や会社というルールの中では、
遅刻しちゃいけない、となんとか体を起こす。
ようやく立ち上がっても、頭は霞のまま。
ADHDという言葉を知らないまま32歳を迎えた。
どんなにだるさと眠さがあっても
「眠いのはみんな同じだろ」と思い込んでいた。
「自分だけじゃない」「弱音を吐いたって誰も解決してくれない」
特に20歳になるまでは気味で、理科の授業でカエルの解剖のビデオを見たり、
健康診断で採決のたびに意識が飛んでいた。
貧血気味なせいもあって、どうせ貧血何だろうと思っていた。
ADHDとHSPの特性に悩まされた日々
32歳のとき、親しい友人に
「あんたADHDだよ」と直球で言われた。
そこで初めて“ADHD”という言葉を意識した。
その後、病院のサイトの簡易診断をしたところ55項目中33項目に該当した。
「忘れ物」「衝動買い」「先延ばし」「失くし物」「だるさ」「不注意による怪我」…
思い当たる節ばかりだった。
さらに音や光に敏感なHSP気質もあり、
音や光にも敏感だ。
カフェの隣席の会話が気になって集中できない。
突発的な音に敏感で、
他人のくしゃみでびっくりして飛び跳ねてしまうこともあった。
映画館の大音量では、
思わず体が跳ねてしまうこともあって映画館が苦手だった。
その気質を面白がられて、
学校や職場で大きな音を立ててからかわれたこともある。
さらに、周りの目を気にしすぎる性格。
SNSで発信しようとしても、
「変に思われないか」と心配ばかりで、指が止まる。
先生の目、友だちの目、上司の目、近所の人の目、親の目。
いつも誰かの視線を探していた。
忘れ物の多かった子ども時代

最初の記憶は小学生になったときだ。
新品の鉛筆は1日で消えた。
どこで失くしたのかもわからない。
いつの間にか四次元に消えたように筆箱から消えていた。
親に「どこで失くしたの!?」と叱られ、
言えずに隠して、結局ばれて、また叱られる。
体操着は小中高で50回以上忘れた。
自分で持っていくより、友達に借りるほうが多かった。
借りた体操着を洗濯して返そうとすると
学校に持ってくることを忘れてしまうので、汚れたまま返却していた。
嫌な顔をせずに貸してくれた友だちに感謝している。
教科書を忘れるのは当たり前。
先生に「またか」と言われ、ビンタや拳骨・・・。
廊下に立っていなさいと言わたことも。
そんな指導を受けたこともあった。
次こそ忘れないように準備しても、なぜかまた忘れる。
どこで忘れたのか、いつ忘れたのかもわからず、それが悪夢になって眠れない日も。
社会人になっても続いた“抜けない霧”
社会人になれば落ち着くと思っていたのに、現実は違いました。
職を失っても誰も助けてくれないという危機感から、ミスや忘れ物こそ減ったものの、頭の中の霧は晴れません。
- 上司が仕事の説明をしても、脳は3歩飛躍したことを考えてしまう。
- 仕事で相談しなければならないのに、自分の中で勝手に人と壁を作ってしまう。
- 集中しているときに話しかけられると、殴りそうになってしまう。
「みんな普通にできていることが、なぜ自分だけできないのか」。
そんな自己否定のループが続いていました。
これらは長い間、仕事を通して経験を積むと
対処法を見つけられ少しづつ解消してきました。
40代で感じた焦りと決意
39歳を過ぎて、ようやく足を止めた。
同世代は起業したり、大きな役割を任されている。
SNSを開けば、みんなが輝いて見える。
「このままでいいのか?」
「一生、このだるさと眠気に支配されるのか?」
「好きな人を、ちゃんと幸せにできるのか?」
不安と焦りで、心まで老けていく気がした。
そこで決めた。「自分の体を、本気で立て直そう」と。
病院・薬・補完療法…それでも足りなかった

医師に相談し、明らかなADHDだと診断を受けコンサータを服用。
集中できる時間が伸びる日が増えた。
ただ、翌日にどっと疲れる日もあり、
エネルギーを前借りしているような感覚が残った。
コンサータを飲む前は鍼、サウナ、呼吸法、冷水シャワー、ジョギング、筋トレ、
ヨガ、瞑想、サプリ、TMS治療……できることは片っ端から試した。
続けられなかったこともあるだろうけど、
根本的なだるさと眠さには効果がなかった。
試したサプリはざっとこんな感じ
- ビタミンB1
- トリプトファン
- テストジャック
- マルチビタミン
- 安眠サプリ
海外から個人輸入で怪しい飲み薬を試したこともあった。
サプリはほとんど体感できることはなかった。
「何をしてもスッキリしない」。
そんな袋小路の中で、僕は光の話を耳にする。

フォトンビームとの出会い
ある日、経営者交流会で、
光子照射機「フォトンビーム」を製造する
キャンプラ株式会社の小林さんと出会った。
小林さんの話を3分聞いた時点で
「なんかすごい未来的なものを作っている」と感じた。
光子? 周波数? 電子? ミトコンドリア? ATP?
光を当てるだけで何かが変わるのか?
にわかには信じられない。
でも、小林さんの話は理路整然としていて、
どこか誠実さがあった。
「これは僕のような人のための機械かもしれない」
そんな予感が、心の奥で静かに灯った。
工場見学と社長との対話
「見学させてください」とお願いすると、
「なら明日は?」と返ってきた。
翌日、研究所(工場)を訪ねることになった。

日曜で静かなフロア。
小林さんの話は面白く、気づけば8時間たっていた。
「本気で良いものを作ろうとしている」と、伝わってきた。
社長の小川陽吉さんにもお会いした。
穏やかで、未来の製品の話を楽しそうに語る人。
10年後、AIで人の生活や仕事の形が変わっても、
この会社の製品は世の中のスタンダードになっているかもしれない。
そう思うと、胸が高鳴った。
「もしかしたら、自分にもまだ可能性があるのかもしれない」。
帰り道、そんな言葉が自然と浮かんだ。
初めての体験
その場で照射も体験した。
頭、胸、つま先に照射してもらう。
印象は「温かい」でも「まぶしい」でもない。
“静かに包まれる”ような感じ。
急に元気になるわけでも、
頭がキレキレになるわけでもない。
けれど、どこか落ち着く。
水道水の味の変化
次に水やケーキに照射すると、
口の中の感じが変わ気がした。
水はカルキ感がやわらいで、まろやか。
いつも飲んでいる南アルプスの天然水やいろはすとも違う「口当たり」を感じた。
フォトンビームを当てた水を、
社内では“フォトンビーム水”と呼ぶそうだ。
「水分子の周りの電子が…」という説明も受けたけれど、
僕には“理屈より体感”のほうが先にきた。
マスカットショートケーキの味と食感の変化

「ケーキのほうが分かりやすい」と小林さんが言う。
半信半疑で試すと、確かに口当たりが違う。
作りたてのように、スポンジがしっとり。
マスカットも、みずみずしさが戻った“気がする”。
生クリームの、口に残る重さが和らいだ感じもあった。
高級ケーキではないのに、
照射したほうは、生クリームの脂っぽさが減りって
甘さがやわらいだように感じられた。
「科学の説明を超えた何か」に、
このあたりから静かに惹かれていった。
この出会いは、偶然ではなかった
その後も何度かキャンプラ社を訪ねた。
小林さんは延べ30時間以上、マンツーマンで講義をしてくれた。
小川社長は手料理でもてなしてくれた。
一人の来訪者を大切にする、
その姿勢に心を打たれた。
照射して帰った夜は、眠りやすかった気がする。
翌朝の体の軽さ、仕事への入りやすさも、確かに感じた。
41年間のだるさ、眠さ、無気力。
その向き合い方に、ひとつの手がかりを見つけた気がした。
小川社長は、これは治療ではない、調律だと言う。
楽器で言うと、壊れた楽器を修理するものではなく、
本来の音になるように調律することだと言う。
たしかに、病気ではないので病院に行くものではない、
だけど、何か体の中のリズムや歯車が嚙み合っていないときが多い気がする。
それが、眠さ、だるさ、集中力の欠落にかかわっていたのかもしれない。
自分の中にすっと腑に落ちた気がした。
フォトンビームに出会えたこと。
小林さん、小川社長に出会えたこと。
偶然とも、めぐり合わせとも言える。
スピリチュアルを語れる人間ではないけれど、
この“縁”には、どこか見えない力を感じた。
必要だったから出会えたのかもしれない。
説明はつかないけれど、
その前向きな力に背中を押されて、僕は購入を決めた。
半信半疑だった気持ちは、
「やってみよう」という静かな確信に変わっていた。
フォトンビーム納品式
次回予告
次の記事では、
僕が実際にフォトンビームを生活に取り入れた方法と、
最初の2週間で感じた変化についてお話しします。